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京都の坂 逢坂

三洋化成ニュース No.530

京都の坂 逢坂

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2022.01.14

中西 宏次

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国道1号線沿いにある「逢坂山関址」碑

 

逢坂には、かつて逢坂の関がありました。「逢坂山関址」碑が建っているのは、滋賀県大津市大谷町の国道1号線沿いですが、その横を間断なく車が疾走していきます。今はそれと意識することなく人々が越えていく逢坂は、近世まではやましろ近江おうみ国境くにざかいだっただけではなく、畿内とそれ以外の地(しちどうのうち東海道・とうさんどう)の境界でもあったので、逢坂の関を越える時旅人の脳裏にはさまざまな思いがよぎったのではないでしょうか。

 

逢坂の関を詠み込んだ百人一首所収の歌

これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関

蝉丸作とされるこの歌はあまりにも有名です。連れ立って歩く人や見ず知らずの人たちが行き交い、京都に出入りする逢坂を越えていく様は、まさに出会いと別れとが交錯する人生そのものです。

 

この歌の初出である『後撰和歌集』(951年)や『今昔物語集』(平安時代末成立)での蝉丸像は、逢坂の関近くの粗末なわら家に住む盲人で通行人に物乞いをしていたが、琴あるいは琵琶の名手だったということになっています。

 

逢坂の関は、その名に「逢う」(出会い)と、分離・別れを象徴する「坂」・「関」という相反する意味を包含しています。この二重性を見事に歌で表現した蝉丸は逢坂の代名詞となり、中世以後職能民として自立していった芸能民によってさまざまな人物像で語られるようになり、さらに神であるともされるようになります。

 

『平家物語』では、蝉丸は「えん帝(だい天皇)第4皇子」であったとされ、さらに逢坂の東に元からあった関清水神社に祭神として祭られて、同社は関蝉丸神社と称されるようになりました。

 

関蝉丸神社には「音曲藝道おんぎょくげいどうしん」碑が建っています。元々は逢坂のどうしんであり旅人がのどを潤す「関の清水」に由来する関清水神社が芸能の神ともなったのは、境界・逢坂が芸能民の本拠地だったからです。かつて芸能民は、農民のような定住民ではなく諸国を遍歴・移動するのが日常であり、その本拠地は「流動が日常」である坂=境界でした。なかでも逢坂は「逢う」と「別れ」が反復する場という「坂」の本質を名に負うているのです。

 

関蝉丸神社下社前の「音曲藝道祖神」碑(右)

 

謡曲『蝉丸』には、貴種・蝉丸の姉君としてさかがみが登場します。彼女は長い髪が逆立ったままであったために「異形」とみなされ放逐、流浪を余儀なくされたのですが、琵琶の音に導かれて逢坂で弟君の蝉丸と思いがけず出会います。関蝉丸神社のかみしゃには逆髪がごうされているともいわれ、彼女は逢坂で「さかがみ」に昇華したのです。

 

関蝉丸神社上社

 

このような物語世界を構築し展開していったのは『平家物語』を語った琵琶法師や、謡曲『蝉丸』の作者である世阿弥(能楽の大成者)たちでした。

 

近世になると、説経節せっきょうぶし語りの人たちが関蝉丸神社を聖地としました。彼らは浪曲の原型といわれる説経節を各地の縁日などで大道芸として演じましたが、そこで語られる蝉丸は、開眼し見えるようになったとされます。これは説経節語りの大半が目が見える人たちだったからでしょう。

 

逢坂を本拠地とする芸能民が創出し、時代とともに変容させていった神は、今も名神高速道路が逢坂山をくぐる蝉丸トンネルに、その名が生きています。

 

 

〈なかにし ひろつぐ〉
1946年京都西陣に生まれ、育つ。1971~2007年大阪府立高校教員。2009~2020年京都精華大学人文学部教員。『学校のモノ語り』(東方出版)など学校文化に関する共著書多数。一方、自分と京都との関わりを巡って考察。著書に『聚楽第・梅雨の井物語』(阿吽社)、『戦争のなかの京都』(岩波書店)、『京都の坂』(明石書店)がある。現在、京都民衆史研究所代表。

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