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草の海の下に広がる黒い泥炭地

豊富町・サロベツ原野を飛ぶ

草の海の下に広がる黒い泥炭地

2019.10.01

サロベツ原野。どこまでも続く緑の海に見えるが、土地の改良が進み、湿地面積は1950年頃に比べ、半分以下になった。

 

サロベツで酪農研修を受けようと日本中からやってきた人たちが、
そのまま酪農家の家族になっていったという話には、思わず心が和む。
周囲には緑の草の海がはるかに広がり、日本ばなれした風景を見せている。
泥炭地特有の湿原を、先人たちはみごとに牛の飼える牧草地に変えていったのだ。
阿寒湖でマリモの空撮を終えた僕は、そのまま北海道を車で旅した。目的地は決めず、まだ見たことのない道北を、稚内に向けて北上する。気の向いたところで車を止め、空から望む。二〇一四年、七月のことだった。
緩やかに流れる天塩(てしお)川を伝い、日本海へと向かう。水の透明度は抜群だった。何度も車を止めた。海岸線が近くなるにつれて風が強まり、潮の香りが増していった。
日本海に出た。右を見ても左を見ても、何もない。水平線から地平線へとつながる、平らな世界だった。その境に、道が一本、南北に走っている。
木々はない。地面には、ササだけが生えている。
海岸線を北上する。ところどころ、風力発電の鉄塔が並ぶ。トンネルのような長いシェルターが現われた。風雪から車を守るためのものだった。
いつしかあたりは、広大な酪農地帯に変わっていた。刈り取られた牧草は、大きなロールとなって転がる。広大な牧場には、ゆっくりと牛が歩く。日本最北端まで四〇キロ。そこには異国を思わせる、牧歌的な景色が広がっていた。僕はサロベツ原野にいた。地元の飛行仲間の協力を得て、刈り取られた牧草地を離発着場所に使用することができた。牧草地にキャンプし、風が収まるころ離陸。行き先は風しだい。日本で実行できる空の旅の、最高の形ではないだろうか。心弾んだ。

開拓民の末裔

フライトの準備をしていると、牧草地の持ち主、山川重善さん(六三歳)が軽トラでやって来た。挨拶に近づくと、「あーこわい、こわい」と意表を突く言葉に、僕は戸惑った。話を聞くと、「こわい」とは「疲れた」の意味で、北海道の方言だった。
山川さんは生粋のドサンコ(北海道生まれ)だ。祖父の代に、開拓民としてサロベツ原野に入植。戦後、樺太や満州から引き上げてきた人たちは、食糧難からサロベツ原野に入ったという。
祖父の代は畑作。母の代に牛を飼いはじめ、そして山川さんの代になった。当時、あたりには七〇戸ほどあったが、今では一六戸に減った。山川さんは所有地を少しずつ増やし、現在、九〇ヘクタールの広大な敷地のもと、酪農を営んでいるという。
「お爺さんが東北からやって来て、お母さんは岐阜から。そして、お嫁さんは静岡からって言いましたが。みごとに全国に散らばってますね?」。遠慮なしに聞いてみた。「さっき、若い女の子見たろ」。どうやら、牛の世話をしていた、二〇代半ばの女性のことを指しているらしい。
酪農研修、という言葉を教わった。日本各地からサロベツにやってきて、家族の一員となって酪農を体験してもらうことで自立を支援する、というプログラムだという。「じゃ、そのまま、本当の家族になっちゃったんですね」と聞くと、「俺の嫁はそうだけど。けっこう多いんだど、昔から」。山川さんは眼を細め、話してくれた。
「あんた、空飛ぶんなら、空から利尻富士を眺めてくれないか。ここから見るのが一番さ。あとな、サロベツ原野の周りに生える緑の草は、ササだ。あれはちょうど人間の背丈ほどでね。その下は湿原のぬかるみさ。もし不時着でもしたら、出てくるの大変だから、気をつけるんだど」。風のように旅し、流れるようにフライト準備が整っていった。

牧草地として活用される湿原。地下水位が下がったことで植生が変わり、ササが牧草地や湿原を覆うようになった。

ファインダーに入りきらない緑の海

離陸。
足下には広大なアシの湿原が広がった。緑の海だった。日本で、こんなに広い景色が望めるとは。撮るという行為が、煩わしくなっていた。ファインダーというちっちゃな枠に、どうやってこの景色を入れこめばいいのか。
大きく三六〇度旋回した。緑の湿原から、黄金色の牧草地、そしてその境には、漆黒のサロベツ川が流れていた。広大な景色を前にし、撮影の起点を見つけられなかった。僕はフライトラインを見失っていた。迷ったあげく、湿原に刻まれた鹿の足跡を追うことで導いてもらった。グングンと内部に入り込んだが、変わらずに緑の海が続いていた。湖沼で野鳥たちは羽を休め、山吹色のエゾカンゾウの花がポツリポツリと咲く。共に緑の海のアクセントだった。
湿原は人を寄せつけない。そして、そこは鹿と野鳥の楽園だった。

湿原に刻まれた開拓の跡

着陸するや、僕は山川さんに聞いてみた。一つは、湿原を蛇行するサロベツ川が、不自然に直線になっていたこと。もう一つは、湿原と牧草地の境に走る水路について。僕は、湿原の際に見え隠れした、人工的な水路が気になっていた。
山川さんは煙草に火をつけ、ゆっくりと話してくれた。「それはサロベツ原野の開拓の跡だ」と。「ここは、とにかく寒い場所で、農作物が作れないんだよ。五月末まで霜がつき、九月末には再び冬が始まる。品種改良を試みるのは、どこの開拓地でも同じだけどさ。ここは特に雪解けの洪水と、夏の水害の影響が大きくてね。そもそも、この場所は泥炭地といってね」
泥炭地。普通、植物は朽ちると腐敗し、微生物の分解によって土に戻る。そして再び耕作ができる。だが、サロベツは極めて寒冷な気候のため、微生物の分解が植物の朽ちる早さに追いつかない。その結果、植物の残骸は黒褐色をした粘土状のまま堆積し続ける。さらに、泥炭地は水はけが悪く、ぬかるむ。土は強酸性で養分がなく、耕作するには不向きという性質をもっている。「選択肢はなかった。この湿原で、何とかするしかなかったんだよ」と山川さんは言った。

1960年代の拡幅工事で、サロベツ川が直線化している。背後のパンケ沼にはタンチョウ鶴や水鳥が飛来する。

泥炭地に暮らしを築く

サロベツ原野で生きる。それは、湿原で生き抜くことだと知った。そのぬかるむ泥炭の上に、暮らしを築き上げなくてはならない。泥炭地の改良は、避けては通れない道だった。
水はけのよい、乾燥した土地をつくるため、川をショートカットする。放水路を確保し、側溝を開削し、湿原の水を抜く。空から望んだサロベツ原野。その節々に見えた人工的な痕跡は、先人が下した開拓の歴史そのものだった。
夕方。利尻富士を望むフライトを試みた。オレンジ色に染まる空を背に、日本海からせり上がるシルエットの利尻富士(一七二一メートル)。雲の影には礼文島がたたずみ、さらにその奥にはロシア大陸を意識させた。
サロベツ原野の立ち位置を、望むことができた気がしていた。同時に、もどかしさも感じていた。泥炭地に生きた開拓民の汗は、いくら想像しようにも追いつけない。
きっと先人も、夕日にたたずむ利尻富士を望んだことだろう。その時、何を思い、どんなひとときを送っていたのだろうか。

夕日にたたずむ利尻山。サロベツ原野より西に25km。

 

文・写真=エア・フォトグラファー 多胡 光純〈たご てるよし〉

1974年東京都生まれ。京都府木津川市在住。獨協大学卒。学生時代は探検部所属。

主な活動に「マッケンジー河漕飛行」「天空の旅人 紅葉列島を飛ぶ」などがあり、旅とモーターパラグライダーによる空撮を軸に作家活動を行っている。2014年12月には10年間の活動をまとめたDVD『天空の旅人シリーズ』3作を同時リリース。販売はwww.tagoweb.netにて。

 

写真=本間伸彦

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