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大事なのは失ったものではなく、今、自分にあるもの

三洋化成ニュース No.511

大事なのは失ったものではなく、今、自分にあるもの

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2018.11.06

パラトライアスロン選手
谷 真海〈たに まみ〉 Mami Tani

1982年宮城県生まれ。旧姓は佐藤。早稲田大学応援部チアリーダーズに在籍中、骨肉腫により義足生活に。2004年早稲田大学商学部卒業後、サントリー株式会社(現:サントリーホールディングス株式会社)に入社。2004年アテネ、2008年北京、2012年ロンドンと3大会のパラリンピックに、女子陸上競技・走り幅跳びの日本代表選手として出場。2012年早稲田大学大学院スポーツ科学研究科(社会人コース)修了。2013年東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会のプレゼンターを務める。2016年トライアスロンに転向。著書に『ラッキーガール』『とぶ!夢に向かって』など。

 

写真:瀧岡健太郎

2020年の開催が迫る東京オリンピック・パラリンピック。谷真海さんは、2013年のIOC総会で招致委員会の一員としてプレゼンを行い、見事、東京での開催を勝ち取りました。大学2年生の時、病気の治療のため右足下を切断した後、陸上走り幅跳びの日本代表として、3度パラリンピックに出場。結婚・出産を経てトライアスロンに転向し、数々の記録を残しています。招致プレゼンの思い出やスポーツに対する思い、2020年に向けた期待を伺いました。

スポーツの持つ真の力を世界に伝える

-- 東京オリンピック・パラリンピック開催を決めた、2013年の招致プレゼンテーションでの、谷さんのスピーチは非常に印象的でした。どのようなきっかけで、招致活動に参加することになったのですか。

IOC委員への最終プレゼンの半年ほど前に東京で英語でプレゼンする機会をいただきました。その後すぐに、半年後の最終プレゼンでもというお話をいただき驚きましたが、選んでもらったからにはお役に立ちたいと思い、引き受けました。個人スポーツのアスリートという立場とは違い、招致委員会が一つの日本代表チームのようで、とても刺激的な半年間でした。

-- トップバッターでスピーチされました。谷さんの役割はどんなことだったのですか。

自分の経験をもとに、日本が世界中にもっと広げたいスポーツの真の力について話すのが私の役割でした。日本はこれまで、地位の高い方から順に話をすることが多かったんですが、今回はまず私の話で聴衆の心をつかむという戦略だったようです。

-- 原稿の内容はどのように決まったんですか。

まずは、イギリス人の招致委員会戦略コンサルタントの方と、話す内容についてディスカッションをしました。出来上がってきたスピーチ原稿の内容は、病気になって足を切断したことや再びスポーツを始めたこと、東日本大震災で宮城県に住む家族と連絡が取れなくなったことなど、自分の経験したことばかりでした。

-- 招致プレゼンで通訳を務めた通訳者の長井鞠子さん(本誌2015年冬号に登場)が、2020年の招致プレゼンでは、なぜ東京でなければならないのか、そのパッションが伝わったとおっしゃっていました。パッションを、どうやって言葉に込めるのでしょうか。

スピーチの先生も、気持ちを言葉に込めることが大切だと、何度も言っていました。先生からは、その時の自分に戻って、その時の気持ちを思い出しながら話すといいと教わりました。そこで練習では、当時のことを思い出し、出会った人たちの顔を思い浮かべ、一つひとつ振り返りながら話しました。でも、すごく気持ちを込めて話をしたつもりでも、動画を撮影してもらい見てみると、あまり伝わってこないんですよね。特に私はトップバッターなので、日本のプレゼンの空気をつくるという重要な役割もありました。

 

東京でのオリンピック・パラリンピック開催が決まった、 IOC総会でのプレゼンテーション (2013年9月)     写真:毎日新聞社/アフロ

-- 日本人はあまりジェスチャーを使わないし、表情もそれほど大きく動かさないですが、外国の人のコミュニケーションの取り方はもっと大げさですもんね。

それに負けないように話さなきゃいけないので、もう、恥ずかしさを捨てました(笑)。日本語を話す時よりも口を大きく開けて話せるように、ペンを口に挟んで話す練習もしました。不安をなくすため、最後の2日間はみっちり練習しましたね。本番の前の日に話しながら、当時支えてくれた皆さんの顔を思い出して、自然に涙があふれてきたんです。その時、やっと話したい内容がストンと胸に落ちた感じがしました。本番は落ち着いて、自分の言葉で話せました。

-- 修正点を把握して、ゴールを見誤らずに本番までにきっちりと仕上げるところが、さすがアスリートですね。スピーチで一番伝えたかったのはどんなことでしょうか。

一つは、「大事なのは失ったものではなくて、今、自分にあるもの」だということ。もう一つは、自分の病気や震災を経て感じた、スポーツの真の力です。私自身、20歳で足を失った後、再びスポーツを始め、自分らしさを取り戻すことができました。また、東日本大震災の後には、200人を超える日本や世界のアスリートが、のべ約1000回も被災地に足を運び、スポーツイベントの企画などを通して、5万人以上の子どもたちに勇気を与えました。スポーツを通して、被災者の皆さんが自信と希望を取り戻し、笑顔になっていくのを目の当たりにしたんです。

-- 当時、震災や原発事故の問題は、招致のマイナス要素でもあったと思いますが、そこを見事にアピールポイントに変えられました。

私は東北出身ですから、東京オリンピック・パラリンピック開催が実現することで、東北の復興がより速く進むのではないかとも期待していました。聖火リレーが全国を回りますから、さらに復興を進めて、全国のみんなが本当に楽しめる大会にしたいですね。

-- 日本が復興して元気になった姿が、全世界の人たちに伝わり、同じような災害にあった海外の人たちの力になるといいですね。

出産を経て、新たな種目にチャレンジ

-- 同じ頃、競技活動でも、走り幅跳びで素晴らしい記録を残されています。

2012年、3大会目の出場となるロンドン大会では1センチ足りずに決勝に残れず、悔しい思いをしました。その思いをバネに、翌年世界選手権でメダルを獲得し、走り幅跳びを始めた頃から掲げていた5メートルという目標も達成できました。同時進行で日本代表として招致プレゼンに参加していた経験が、競技にもプラスに働いたかもしれませんね。

-- その後、結婚、出産されていますね。競技に戻る時はどんな思いでしたか。

産後は子育てに忙しく、すぐにもう一度世界を目指すという気持ちにはなれませんでした。1年ほどして、仕事に復帰する頃に「もう一度頑張ってみたい」と思うようになったんです。2020年の東京パラリンピックにチャレンジせず、応援している自分を想像すると、きっと後悔するだろうなと思えたので、やれるだけのことはやってみようと。幸い、会社の理解もあって環境が整い、スポーツを続けられることになりました。

-- この時、走り幅跳びからトライアスロンに転向されています。水泳・自転車・長距離走を続けて行うとてもハードな競技ですが、どのような判断で、転向されたのですか。

走り幅跳びは瞬発力が必要で、20代の若い身体の方が向いているんです。より長くスポーツをしたいと思い、長距離種目に挑戦することにしました。水泳は子どもの頃にやっていましたし、2011年頃からトライアスロンの大会には出ていたので、一から始めたわけではないんですよ。

-- 2016年1月の転向以来、4月のアジア選手権から4連勝、当時世界ランク2位という成績を収めていらっしゃいます。トライアスロンの魅力は何でしょうか。

トライアスロンはとてもオープンな種目で、子どもから80代の方まで幅広い年齢の方が楽しんでいます。パラアスリートが、一般の大会に一緒に出ることもあるんですよ。大会によって距離もさまざまで、みんなそれぞれの目標を持ってチャレンジしています。スイム・バイク・ランと3種目あるので、練習も飽きずに楽しめますし、全身の筋肉をバランスよく使うため身体にもいいそうです。世界のさまざまな国で、自然のなかで太陽の光を浴びながら走ったり、川や海で泳いだり、街中で声援をもらいながら走るのは、爽快感がありますよ。応援してくれる人との距離が一番近い種目かもしれません。

-- 出産後は身体の状態も変わられると思いますが、アスリートとして再びスポーツをすることに、不安はありませんでしたか。

すごく不安でした。身体が戻るかな、と……。でも、世界にはママでもメダルを取っているオリンピアンが大勢います。日本ではまだ少なく情報もないのですが、ママになってもアスリートとして活動することが可能だと、発信していきたいですね。

-- 結婚・出産を経て、競技活動は以前とどう変わりましたか。

自分の健康も大事ですが家族の健康も守りたいので、確かに時間は限られています。その分、練習一回一回を大切に、目的意識を持って続けるようにしています。でも、生活のなかでバランスをとってやっているので、無理しているつもりはないですね。早朝にトレーニングをして、夜は子どもと一緒に早く寝ています。朝、子どもが早く起きてしまって、練習に行けなかったり遅れたりすることもあるんですけど、あまり気にしないで、柔軟に競技に向き合うようになりました。家族は、試合に向けて一緒に頑張っているチームだと思っています。特に子どもの応援からは、すごく大きな力をもらっています。

 


さまざまな人が、東京に集まる2020年

-- 3度パラリンピックに出場されていますが、海外のパラリンピックの受け止め方はいかがでしたか。

一番すごかったのは、2012年のロンドン大会でした。開催中、毎日チケットがソールドアウトして、8万人が入れ代わり立ち代わ
り応援してくれました。子どもたちも並んでチケットを買ってくれて、選手たちの名前を呼ぶファンも多くて、とても成熟した国だな
と思いました。

-- イギリスではオリンピック・パラリンピックの開催が決まってから、パラスポーツに対する意識を醸成していったのでしょうか。

そうだと思います。開催が決定した数年後に世界大会に参加しましたが、この時はまだ観客も少なくて、テレビ放映の仕方も手探りでした。その後、大会成功に向けてメディアや企業が動き、開催前年頃から徐々に盛り上がって、一般の人にとってもパラスポーツが身近になっていったようです。CMなどでもパラアスリートをかっこよく取り上げるものが多かったですね。その頃の日本では、障害を乗り越えて努力する面が強調されがちで、捉え方が違うなと感じました。グランプリという陸上の世界的な大会にも、パラの種目が何種目か入って、観客からすると、ウサイン・ボルトのような有名な選手が走ったと思ったら、その次にパラアスリートが走ってる、という光景も見慣れている感じなんですよ。

-- 実際にパラスポーツを見ると、とてもかっこいいですよね。街で義足や車いすの方を見かけると「助けてあげたほうがよいだろうか」という視点で見てしまうんですが、パラアスリートを見ると、義足や車いすがかっこいいギアに見えます。そういう見方は失礼かもしれませんが……。

全然そんなことないですよ。日本人はまだパラスポーツを見慣れていないと思うんですよね。ぜひ肩肘張らずに、ビール片手に気楽にパラリンピックを見てほしいです。スポーツ以外の面でも、もっと障害者が過ごしやすい社会になればいいですね。ヨーロッパでは、車いす利用者が一人で街中を動き回っていますが、日本では少ないと思います。バリアフリー化が完全には進んでいない部分もあるかもしれませんが、誰かの力を借りて電車やバスに乗り降りしたり、周囲を待たせたりすることに遠慮する気持ちもあるのではないかと思います。2020年に、世界中からさまざまな人が来日するのをきっかけに、いろいろな人たちが人生を自由に楽しんでいることを知ってほしいです。

トライアスロン競技中の谷選手(写真:竹見脩吾)

-- 障害のある人に特に気を遣うのではなく普通に接して、障害の有る無しに関わらず、困っている人には手を差し伸べればいいということですね。

そうですね。私も足を失うまでは、障害を持つ人には気を遣った方がいいのかと思っていましたから、そのような感覚はわかります。しかし実際に交流してみると、障害のある人もない人もあまり変わらないなって思います。遠征先で、車いすの選手や視覚障害の選手と相部屋になることがありますが、みんな自分のことは自分でしていますよ。会社や学校でいろいろな人が一緒に過ごすようになれば、社会も変わっていくのではないでしょうか。2020年は、障害だけでなく人種など、さまざまな壁を取り払うきっかけになると期待しています。

-- 最近は小学校でも、外国人の両親を持つ子が多いそうです。今の子どもたちは、さまざまな人とどのようにコミュニケーションを取るか、日常生活のなかで学んでいくのでしょうね。

あきらめずに挑戦し続ける

-- 2020年の東京パラリンピックでは、トライアスロンの、谷さんが出場を予定されていたクラスが除外されることになってしまったと聞きました。とても残念です。

とても大きなショックを受けています。現在、障害の軽いクラスとの統合という救済措置を求めて日本が意見を出しています。統合クラスは不利ですが、東京パラリンピックに出場できる望みはまだゼロではないので、練習は続けています。

-- お子さんにも、東京パラリンピックに出場するお母さんの姿を見てもらいたいです。

はい。5歳になる息子に応援してもらうのを目標にやってきました。これまで参加したどの大会でも、開催国の選手たちは輝いて見えました。それがいよいよ私たちの住む東京に来る。これはすごいことだと思います。母になっても、チャレンジを続けられることに感謝したいですね。

-- 谷さんの今後のご活躍を楽しみにしています。本日はありがとうございました。

 

と き:2018年8月24日
ところ:東京・丸の内の㈱RIGHTS.にて

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