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三洋化成ニュース No.545
2024.10.11
以前お話しした絶対悲観主義と並ぶ僕の信条は無努力主義です。モットーは「全身で脱力」。
あくまでも僕の場合ですが、これまでの仕事生活で「努力しなきゃ……」と思ったことのうち、仕事として(つまり、人が受け入れてくれる水準にまで)モノになったことは、ただの一つもございません。これだけは自信を持って言えます。
そもそも「努力しなきゃ……」と思うということは、必要とされているアウトプット水準と自分の現状との間に乖離があることを意味しています。つまり、このギャップを埋めるためにもう一段の「努力」が必要になる。
で、ここからがポイントなのですが、それが「努力」かどうかということは、当事者の主観的認識の問題です。僕に言わせれば、「努力しなきゃ……」と思った時点でもう終わっている。
もちろん、何かがうまくなるためには努力投入、しかも長期継続的なそれが必要なわけですが、本人がそれを「努力」と認識している限りは、投入の質量ともに高が知れているし、何よりも持続性に欠ける。
質量ともに一定水準以上の「努力」を継続できるとすれば、その条件はただ一つ、「本人がそれを努力だとは思っていない」、これしかないというのが僕の結論です。これを私的専門用語で無努力主義と言っています。
客観的に見れば努力投入を継続している、しかし当の本人は主観的にはそれを全く努力だとは思っていない。これが理想的な状態。無努力主義の本質は「努力の娯楽化」にあります。要するに、その対象が理屈抜きにスキだということ。
とにかく理屈抜きにスキ→やるのが楽しみ→朝起きたら2 分でやり始めるのも苦にならない→誰も頼んでいないのにガンガンやる→時間が経つのも忘れて集中してやる→繰り返しやる→持続性が極大化→そのうちにうまくなる→それでもスキなのでまだやる→多少の逆風が吹いても「でもやるんだよ!(スキだから)」→相当にうまくなる→割と人の役に立つようになる→ますますスキになる→(10個前に戻って5 回ループ)→さらにうまくなる→いよいよ人の役に立ってその人の「仕事」となる。以上の因果論理の連鎖をあっさりと短縮していえば、「スキこそモノの上手なれ」という古来の格言になります。
僕の場合、この無努力主義の特殊原則を確立するまでは、全く中途半端な「努力」をして、結果的に大した成果を出せず、仕事どころかかえって世間の皆さんのご迷惑になることが多々ありました。そうすると、ますます「(イヤだけど)努力しなきゃ」となる。
揚げ句の果てに、「努力しなきゃ」→「でもイヤだな…」→「よーし、明日から努力することにしよう」→(で、翌日)「やっぱりイヤだな…。よーし、明日こそ努力することにしよう」→(で、翌日)「毎日、明日からは…に無理があるんだな。ここはリアリスティックに来週から努力することにしよう。手帳に書いておきましょう」→(4個戻って12回ループ)→気が付くと楽勝で半年ぐらいが経過、という空回りの悪循環の明け暮れにハマり込むこととなります。
天才は別です。天才は才能の赴くままにスキなことをスキなようにしていればよいだけの話で、無努力主義も原理原則もへったくれもございません。そんなことをいちいち考えなくても、すべてを自然に、矛盾を矛盾のまま、矛盾なく乗り越えられるのが天才です。
ただ、僕は幸か不幸かフツーの人だったので(たぶん幸)、「努力しなきゃ、と思った時点で終わっている。次いってみよう」の無努力主義を意識的に標榜することによって、何とか社会との折り合いがつく仕事をできるようになったという次第です。
どうせ、一人の人間ができることなんて、高が知れているわけです(天才はこれを除く)。幸いにして、世の中いろいろな人がいるわけですから(いわゆる一つの「ダイバーシティ」)、自分がキライで不得意で不得手なことは、自分でやるよりも誰かスキで得意な人にやってもらったほうがよい。社会的分業。相互補完。今も昔も人の世の基本のキ。
ただ、「1%の才能と99%の努力」というのは真実でして、要するに、微弱ではあっても、1%の才能がなければ、99%の努力を突っ込んでも何も起こりません。ゼロに何をかけてもゼロ。その「微弱な才能」とは何か。それが「理屈抜きにスキ」ということだというのが、仕事の特殊原則の起点にして重点にして核心であります。
これからも絶対に努力はしないという方向で、最大限の努力をしていく所存です。
経営学者。1964年、東京都出身。1989年一橋大学大学院商学研究科修士課程修了。一橋大学商学部専任講師、同大学イノベーション研究センター助教授、一橋ビジネススクール教授などを経て、2023年から一橋ビジネススクール特任教授。専門は競争戦略。著書に『ストーリーとしての競争戦略』『絶対悲観主義』などがある。