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歴史の足跡を訪ねて(4)幻の愛宕山ケーブル

三洋化成ニュースNo.550

歴史の足跡を訪ねて(4)幻の愛宕山ケーブル

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2026.01.16

鳥越 一朗

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当時の愛宕山ケーブルの絵葉書(資料提供:福本好記氏)

京都市西北にそびえる霊峰、愛宕山。そこにかつてケーブルカーが走っていたことを知る人は、もはや少数派かもしれない。何せ営業していたのは昭和4年から19年までの15年間であり、80年以上も昔の話となると、世の中の記憶が風化するのは当然のことだろう。だが、その痕跡は、今も愛宕山の山中にひっそりと残されている。

愛宕山ケーブル・愛宕山鉄道平坦線の軌道跡

清滝から愛宕神社への表参道を登り、水尾別れから少し進んで、右側の杉木立に分け入ると、愛宕山ケーブル(愛宕山鉄道鋼索線)の愛宕駅跡に行くことができる。深閑とした森の中、コンクリートに鉄筋の浮き出た、お化け屋敷のような駅舎跡に突如出くわせば、誰もが衝撃を受けずにはおられまい。愛宕山ケーブルの軌道は、山麓の清滝川駅から7合目の愛宕駅までの約2kmで、途中トンネルが6つもあり、当時東洋一の長さと宣伝されていた。

愛宕山ケーブル開業の3カ月前には、愛宕山鉄道平坦線が開通している。平坦線は嵐電嵐山駅の北側ホームを起点とし、いったん東へ向かった後、山陰線(現JR嵯峨野線)を築堤ちくていで越えて北に進み、清滝までの約4kmをつないでいた。現在の清滝道(府道29 号線および137号線)は、平坦線のルートをそのままなぞっており、試峠こころみとうげを抜く交互通行の清滝トンネルは、この間が単線だった平坦線由来のものである。ともあれ、当時京都市街からは、嵐電、愛宕山鉄道平坦線、愛宕山ケーブルを乗り継げば、難なく愛宕山に登れたのである。

愛宕山にケーブルが敷設された理由には、大正から昭和にかけての観光ブームがあり、同時期に生駒山、比叡山でもケーブルカーが走り始めている。愛宕駅付近には、ホテル(愛宕山ホテル)や遊園地、スキー場などが整備された。ホテルは多くの宿泊客でにぎわい、遊園地には巨大な回転飛行塔が設けられ、機上からは遠く生駒山辺りまで眺められたという。

もともと愛宕山には火伏の神をまつる愛宕神社があり、古くから「伊勢に七度、熊野に三度、愛宕山へは月参り」といわれるぐらい、多くの参拝者を集めていた。ケーブルカーは参拝者の足ともなり、7月31日の千日詣の時などは、夜通し臨時便を走らせていたようだ。

ではなぜ、愛宕山ケーブルは廃止されたのか。それは太平洋戦争の影響によるものである。不要不急( この言葉、近年復活の感がある) の施設として、平坦線ともども営業停止を命じられ、レールなどの鉄材は軍事用に拠出されたのだ。ケーブルの廃止に伴い、ホテルも遊園地もスキー場も、当然のごとく撤退した。平坦線の清滝トンネル内には、軍用機製造工場がつくられたようだが、ほどなく終戦を迎える。

愛宕山ケーブル同様、同時期に廃止になった各地のケーブルカーの多くは戦後復活した。しかし、残念ながら愛宕山ケーブルはそのチャンスに恵まれなかった。現在、愛宕山ホテル跡は駅舎より荒廃が激しく、基礎と石張り壁が残るのみ。遊園地やスキー場の跡は、森林や草原に変貌している。かつてのにぎわいを思うと、戦争の無益さと人の営みのはかなさを嘆かずにはいられない。

左:愛宕山ホテル跡
中央:愛宕山ケーブルの橋梁およびトンネル跡
右:愛宕山ケーブル愛宕駅舎跡

 

鳥越 一朗〈とりごえ いちろう〉

作家。京都府京都市生まれ。京都府立嵯峨野高校を経て京都大学農学部卒業。主に京都や歴史を題材にした小説、エッセイ、紀行などを手掛ける。著書に『TOKYOで「華のお江戸」を巡る 東京江戸地図本』『紫式部と源氏物語 京都平安地図本』『1964東京オリンピックを盛り上げた101人』『おもしろ文明開化百一話』『京都大正ロマン館』『電車告知人ー明治の京都を駆け抜けた少年たち』『平安京のメリークリスマス』などのほか、昭和9年の世界にタイムスリップした少年の愛と冒険の物語(小説)『麗しの愛宕山鉄道鋼索線』がある。

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